悲しみに呑まれ堕ちてしまえば
痛みを感じなくなるけれど......。
物語の悲劇はよく、現実世界の悲劇を写しています。
大怪獣が町を壊す↔️天災が起きる。
仲間がゾンビ化↔️ウイルスに感染する。
では「鬼滅の刃」において人が鬼になってしまうことは、現実世界では何を表しているのでしょうか。
それは
「疑心暗鬼」
だと思いました。
どういうことですか?
例えば、泥棒がいたとしましょう。
その人は自分が人の物を盗むので、
もちろん普段から誰かが自分の物を盗むのではないかと考えるでしょうね。
これは泥棒だけではありませんよ。
例えば、人の悪口を言ったり、粗探しばかりしている人なら、
その人も無意識的に誰かが自分の悪口を言っているかもしれないと想定します。
これが疑心暗鬼に堕ちた人の心理です。
つまり
他人を疑う人は、自分も疑われていることを想定する
ようになるわけです。
いわゆる性格の悪い人、ひねくれた人というのは、常に人を疑うために、そうなってしまう。
逆に純真無垢な人は、他人を疑わないので、自分も信用されていると思えるわけです。
鬼になる。↔️疑心暗鬼に陥る。
炭治郎はまさにこの真逆ですよね。
鬼滅の刃の主人公たちは、これ以上ないほどにまっすぐで、人を疑いません。
これが疑心暗鬼という鬼との対比になっているわけです。
煉獄杏寿郎「俺は如何なる理由があろうとも鬼にはならない。」
この言葉を聞いたときに、我々は現実世界では全く鬼になることはあり得ないのに、なぜかとても心に響くのではないでしょうか。
私はその理由を、
現実世界でも人は疑心暗鬼という鬼になるからだ
と考えました。
戦争も悲劇的な事件も何もかも、全ては人の疑心暗鬼から来るのではないでしょうか。
昔の人はそれを分かっていて、
疑心暗鬼という言葉に 「鬼」 という字を当てたのでしょうね。
最後に 「炎」 の歌詞でもある、
「悲しみに呑まれ堕ちてしまえば、
痛みを感じなくなるけれど...。」
この言葉について少し考えてみます。
鬼滅の刃においては、
悲しみに呑まれ堕ちる=鬼になる
痛みを感じなくなる=不死となる
という意味ですよね。
では現実世界では
悲しみに呑まれ堕ちる=疑心暗鬼になる
痛みを感じなくなる=?
疑心暗鬼になると痛みを感じなくなるのでしょうか。
私はこう考えました。
つまりはじめから人を疑っておけば、何かされたときに感じる痛みは少なくできるということ。
いきなり裏切られたり、振られたりしても、
はじめからこの人は自分を裏切ると思っておけば、痛みは少なくて済むということです。
しかしこの歌詞
「悲しみに呑まれ堕ちてしまえば、
痛みを感じなくなるけれど...。」
は、最後
「けれど...。」
と書かれていますね。
ここを絶対に見逃してはいけない。
鬼滅の刃では
鬼に堕ちると、永遠の命を手に入れる代わりに、
人を喰らい続けなければいけなくなる。
現実世界では
疑心暗鬼に陥ると、裏切りに対する痛みを軽減できる代わりに、人を疑い続けなければいけなくなる。
人を疑ってばかりでは、信頼が築けなくなります。
この部分こそが、鬼滅の刃の真髄であると。
私は考えました。